K go to NEXT:いばやスタイル実践記

ACIM(奇跡講座・奇跡のコース)学習者による ibaya《いばや》坂爪圭吾さんリスペクトブログです


    場所:菊名 Scramble House Tokyoの2階 (外階段をあがって右側、最初の扉)
    定員:1名(ただし事情がある場合は応相談)
      使いたいかたはKまでご連絡ください
      メインの畳の部屋と、板の間の台所の二部屋です。
      電気、照明あり。水、トイレあり。ガスは当面 使えません。
      シャワーは1階でお願いします。
      ベッドも布団もありません。
      空気で膨らませるソファがありますが、寝るには不適かも。
      (ドライヤーと扇風機を1階から借りてきて設置してください)
      宿泊希望の方は、当分の間、寝袋持参でお願いします。



2days ACIM(奇跡講座/奇跡のコース)学習会 in 福岡 その1/ACIMとはなにか

福岡で2日間にわたって行われたACIM(A course in Miracles ア・コース・イン・ミラクルズ。私は単に「コース」と呼んでいる)の学習会に参加してきた。

学習会といっても堅苦しいものではなく、自分の体験を分かち合ったり「こんなことがあったのだけど どう思いますか?」などの疑問質問をみんなで考えたりする、シェア会と呼ぶ方がしっくりくるような会で、福岡の心理セラピストでありACIMの学習者でもある もりGさんにご縁がある人々が集まる会となった。

もりGさんのブログ 
もりGさんのサイト 
フジヤマさんのブログ (学習会の主催者)

 福岡のみならず、金沢や東京(私)や千葉からも集まった参加者は、1日目・2日目とも10名ちょっと。

参加者のうち半分以上が3年ほど前に一度はお会いしているかたで、再会の喜びとともに、初めて会うかたがたとご縁を結べた喜びも噛みしめた、フレンドリーな しかし深い解放や学びも味わえた素晴らしい機会だった。

宿泊もできる会場で、私も予約(&すでにチェックイン)していたB&Bを引き払って、夜の懇親会に参加し、流れで就寝前にクリスタルボウルの演奏もさせていただいた。

詳細については、また改めて書こう。
今日は、ACIMについて書きたい。

 

f:id:K-GO-TO:20171009175045j:plain

 

ACIMについては、ここでは詳しく話したことがなかったように思う。
今の自分の根幹をなすものなのに、いや、根幹をなすものだからこそ、うまく説明できるか自信がなくて敢えて触れてこなかった。7月以降に知り合った友人たちにも、このことはほとんど話していない。
が、これからはこのブログでもACIMを前面に出していこうと決意したので、今日は「ACIMとはなにか」について少し書く。

(この2daysでも「ACIMについてなにも知らない知人・友人から「コースってなに?」ときかれたらどう答えるか」という話題になった…)


【ACIMとは?】

あなたはもしかすると自分のことを「この体が自分である」とか「この世界で ほんのちょっぴりのいいことを楽しみに生きていて、酷い苦しみや辛さを味わう人生を過ごし、あっと言う間に死んでいく儚い生き物」として捉えているかもしれないけれど、本当は「私たちは体ではないし、別々などでもなくひとつであり、実はすでに天国にいるのにそれに気づかずに”地獄のようなこの世界でほんの束の間生きている悲しい生き物である”という悪夢をみている」にすぎない、ということを知らせてくれ、かつ、すでにいる天国に気づかせてくれる道を示してくれる導き。

そのように気づいて生きていくための訓練をする「訓練の書」とも言える。

f:id:K-GO-TO:20171009175133j:plain

 


以前のブログでACIMについて何度か書いている。そのうちのひとつをコピー&ペーストしてみる。

 

再びACIMとは


2015年02月24日
テーマ:ACIM

 

今、『奇跡講座』のテキスト編を読み返しています。
これから先、折にふれてACIM(A Course in Miracles、奇跡講座、奇跡のコース)の話をしていきますね。

ACIMとは、完璧な非二元の考え方をベースに、キリスト意識へ戻るための前提である心の平安を、「真の赦し」を実践することで達成しようとする 心の訓練カリキュラムです。

「真の赦し」というのは、この世界で一般に行われている「許し」とは違います。

この世界で一般に行われている「許し」は、何かことが起こった時、そこには罪があるとした上で、許す人が寛大にも許してやる、という「許し」です。

ACIMのいう「真の赦し」は、そこに何も見ません。

私は日常生活で「真の赦し」を実践している(少なくとも 実践しようと努力している)のですが、このとき、ACIMのいう「この世界は幻想である」とか「私たちは肉体ではない」という非二元の考え方がとても役に立ちます。

この世界では一般に、私たちが離れ離れの肉体であると考えられています。

自分のことを肉体だと考えていれば、誰もが深刻になるのは当然です。

けれども、私たちは幸いにも肉体ではありません。

ただ、肉体という壁で離れ離れになっているように見えるだけです。

私たちは一つなのです。

これを思い出すだけで、この世界で起こっているように見えることのうち、かなりのことを比較的簡単に赦せる気がします。

   旧ブログ 『光の声が天(そら)高く〜世界共有幻想を超えて』より 

 

f:id:K-GO-TO:20171009174905j:plain

 

自分にとってセラピーになることをしてみるといい/それは絵かもしれない、歌かも、舞かも、散歩かも

平成29年10月2日、東京都港区神谷町の光明寺で行われた、アーティストの小木戸利光さんと僧侶の松本紹圭さんの対談&パフォーマンスのイベント。

対談を聞きながら琴線に触れた言葉をスマートフォンにメモしたので、それを再構築してみる。

 

 

今の世の中は、成果主義。とにかく「最高レベルの成果を(しかも最短スピードで)出すこと」を良しとし、それを求められる。

「いつもいつも、ここではないどこかへ向かうべく、目標を設定しそれに向かって邁進すること」を良しとし、それを求められる。

 

しかも「成果を出したらゴール」「目標をクリアしたらゴール」ではなくて、一つを頑張ってクリアしたら、次々と何かが用意されてしまって、頑張るべき状況は続く。

 

いつも何者かになろうとしている。

その理想の姿はどんどん先送りされて、いつまでもたどり着けない。そんなことをしているうちに死ぬ。

「掴むべき理想的なものがどこかにあって、それさえ つかめば成功」みたいなことをみんな(っていうみんなって誰だ?)が思い込んでいて、そう思うことを強要される。そういう社会的圧力がある。

「それさえ つかめば」の「それ」って実際には ない。どこにも存在しない。架空のもの。

 

その状況に特に違和感を感じず、ぴったりハマって頑張れるひとや、頑張ることがやる気に繋がっていたり やり甲斐に繋がっていたりするひとならば、それはそれでOK

ただ、そんな社会の圧力に、息苦しさや生きづらさを感じているひともいる。

そういうひとは、自分が周りの期待に応えられないことを恥じていたり、罪悪感や劣等感を持っていたりする。

 

そういうひとが、してみるといいこと。

自分にとってセラピーとなることをやってみるといい。

 

それは自分自身が深く欲していること。

「やりたいことをしよう」といわれると範囲が広すぎてよくわからなくなってしまったりするけれど「セラピーになること」と限定してみると、具体的にわかって始められるかもしれない。

小木戸さんの場合は、それが音楽であったり、体の動き(舞、パフォーマンス)であったりする。

 

何か理由はわからないが、それをしていると没頭していて気づくと時間が過ぎているようなことがあれば、どんどんそれをやってみて。

その先になにか見えてくるものがあるかもしれない。

それが自分にとってセラピーになること。

 

その、自分にとってセラピーになることをしようとすると、あるいはしていると「こんなことをしてていいのだろうか」という気持ちになるかもしれない。

いいのです!

「これがないと生きられない。わたしにとっては切実なこと」なのだから。

自分にとって なければならないものとして、大切にしてください。

 

常識とずれていることに後ろめたさを感じるように私たちは教育されている。

日本はその傾向がかなり強い。「~〜でなければならない、ふつうは〜~だ」などの社会的圧力。

 

例えば「どうしても絵を描かなければならない」というひとがいる。

その人にとっては描くことをしなければ生きられない。

その人以外の誰も、そのことを勝手な物差しで測ることはできない。

 

誰かから後ろ指を指されそうで、こっそりやっているかもしれない(でも本当は敵は存在していないよ)。

こっそりやってもいいけれど「ほかの誰かはどう感じるかは知らないが、自分にはこれが必要だ」と自分で認めることができると楽かも。

 

「本当の自分(という変わらないもの・あるいは理想的なもの)と今の自分が何かずれているから辛いのだ」と、感じてしまうかもしれない。

「変わらない自分」というものがあるような気がして、探してしまう。けれど本当はそんなものは、ない。

常にわたし自身も変わっていくから、「変わらない自分・本当の自分」などというものは幻想。

固定された「これが私です!」というようなものは現実にはない。

 

今、わたしは宇宙のどこにいるのか。イメージしてみて。

宇宙には端も境界線もない。

さあ、自分はどこにいる?

 

中道。

 

小木戸さんの舞は、見せるためのものというよりも、動くこと自体が大切だという印象、内的な動き。

小木戸さんは自分の中から出て来るもの(舞)でチューニングしている印象を受けた。

そのチューニングは、「よし、これでバッチリハマりました。ずっとこのままで いける」ということはない。

ずっと調整(チューニング)し続ける。

 

その時その時で自分が深く欲していることをすること。

し続けること。

 

それが、息苦しさ(=生き苦しさ)を軽減する一つのやりかただと思う。

 

f:id:K-GO-TO:20171005000051j:plain

 Photo by 東 優子

 

 

宮古島での言葉を超える体験=大神島、砂山ビーチ、満天の星、ウミホタルそして…

言葉を超えるものを宮古島でたくさん体験した。
大神島での不思議な体験。砂山ビーチの夕陽、暮れた後の満天の星、月が上る前の海ホタル。
そして、これから書く仙人の庭での体験。

 

f:id:K-GO-TO:20170925221008j:plain

 

仙人と呼ばれるその人が、島の中の小高い丘にコツコツと一人で石を運ぶこと14年、出来上がったのは遊び心に溢れた石庭だった。

島の中で、朝日も夕陽も両方見ることができる唯一のポイントという見晴台から、正に今 沈まんとする夕陽を双眼鏡で見守ったり、手作りのブランコに乗って、夕陽に向かって叫んだり。
その時、ブランコに乗っていないひとたちは、これまた手作りの楽器(主にパーカッション系)を鳴らして盛り上げる。

 

f:id:K-GO-TO:20170925221506j:plain

 

f:id:K-GO-TO:20170925221926j:plain

 

カフカの芝生の上をソリで滑ったり(最後は必ず転んで、みんなで大爆笑)、芝生の広場の上を裸足で歌いまくり踊りまくって、大騒ぎ!

 

ぱーーーーーーーーーーん
と、何かが弾けた。
私の中で。

 

 

「私、今、車の中にクリスタルボウルを持ってきているので、ここで、演奏させてください!」

大きなテーブルにもなる、舞台にもなる、ドミノ式の台を組み立てていたら、自然に口から言葉が溢れていた。

そう、クリスタルボウルを車の荷台に積んでいた。車は2台あって、たまたまクリスタルボウルを積んでいる方の車で来ていた(まあ、たまたまではないのだろうが。)

急いで車からボウルを持って来て、今セッティングしたばかりの大きな舞台で、夕陽は沈んだけれどまだ闇は迫っていない、もしも昼寝をしてこの時間に起きたら「あれ?朝なの?それとも夕方なの?」と迷ってしまうような、そんな空の下、心のままに演奏した。

一緒に石庭に行った友人たちと仙人が観客になってくれて、本当に気持ちよく音を響かせることができた。

自分が音そのものになって、空に吸い込まれていくような、そんな。

そして、なんの脈絡もなく「ああ、もう、すべてが ゆるされているんだな」という気がした。

何を考えていたわけでもない。

ただ、そんな感じが ふわぁ〜と浮かんできた。

そう、浮かんできたというのが一番ピッタリくる。

 

 

 

 

いったいどんな演奏をしたのか、再現はおろか 思い出すことすら まったくできない。

けれど、あのときの空気感、あの感じは、きっとずっと忘れない。

 

二度と体験することはできない、唯 一度の、一度きりの演奏。

 

ああ、私は、そんな演奏をこれからどこで響かせていくのだろう?

日本中が、いや、世界各地が私を待っている、そんな気さえする。

 

クリスタルボウルの音に声を乗せて、その空間に響かせる。

あるいは

声に舞を重ねて、その空間を踏みしめてゆく。

そんなことをしていくのだな。

 

これだったんだ、自分がすることは。

今度の人生は、これをするために生まれてきたんだ。

自分の命はそれで燃やされていくのだな。

そして遣り切って、命を燃やし尽くして、輪廻の輪から出ていくんだ。

 

 

f:id:K-GO-TO:20170926214231j:plain

 

 

言葉/言葉を超えているもの/大切なものはいつも言葉を超えている/それでも言葉もつかっていく

昨日、宮古から帰ってきたばかりのひとみちゃんと会った。
日々の暮らしに紛れ潜んでいた宮古の空気感が、風になって私の中を吹き抜けた。

 

今年の夏の旅は、筆舌に尽くしがたい。
生まれ変わりの夏、生き変わりの夏だった。

 

本当に素晴らしい方々は、淡々と自分のすること・したいことを行うだけで、実は多くを語らなかったりする。
それをすくい上げ拾い上げて、なんとか 伝えようと もがいてみるものの、所詮は自分の中にある言葉でしか表現することができず、あるいは、内側から湧き出ずる歌や舞でしか表現することができず、なんとも心許ない気持ちになる。

 

言葉を発すれば発するほど、自分の受けた感銘やインパクトからはどんどん遠ざかり、それが誰かの元へ届いたときには、もうまるで違うものになってしまっていて、もともと伝えたかった「あの感じ」は、自分と相手との真ん中あたりで失速して落下し、ペチャンコになっている…。そんな経験を誰しも しているのではないだろうか。

 

宮古で功さんと仙人に出会って感じたのは、そういった類のものだった。

淡々と生きているその姿は、私が言葉にしても「ふーん」と流されてしまうような陳腐なものになってしまい、うまく言葉を紡げない自分をもどかしく感じる。けれど、それを何かの形でとどめないままに放置し自分の中で風化させることを、私は自分に許したくない。

 

とどめなければいつか忘れ去る。体験したこととそれを忘れることのあいだの時間が年々小さくなっていることを思えば、もう一瞬たりとも無駄にはできない、そんな気がしてくる。

 

 

モデル・俳優・ミュージシャンの小木戸利光さんと写真家のホンマタカシさんのトーク&パフォーマンスのイベントに参加した。

2017/09/22 Fri小木戸利光×ホンマタカシ「日々かわりゆく表現の形 トーク&パフォーマンス」『表現と息をしている』(而立書房)刊行記念


恥ずかしながら、お二人のことは全く存じ上げなかったのだけれど。皆川公美子さんFacebookへの投稿を読んでピン!と来て、すぐさまチケットを取った。

 

 ↓これはスクリーンショットです。リンクには飛べません。

f:id:K-GO-TO:20170923083233p:plain

f:id:K-GO-TO:20170923083322p:plain

 

 

最初のパフォーマンスで、一気に世界に引き込まれた。ホンマさんの奏でる音楽の中、小木戸さんが行う身体表現で、なにか、小さな光の粒のような光の波のようなものがなんども押し寄せてくるのを感じた。それはまさに波だった。それは投げかけられ、私にぶつかって音もなくきえていった。
さらに。透明にキラキラと光る液体。ホンマさんの被りもののツノから採取して、それをいただく小木戸さん。その透明な液体が私にははっきりと見えた。

 

トークも素晴らしかった。
驚いたのは、ついさっきひとみちゃんと「言葉というものの限界」「本当にすごい人は自分のことを語らない、だってそれが当たり前になっているから」みたいなことを話していたのに、イベントでも「言葉で表現することと、言葉では表しきれないもののこと」について、「表現者の意図を超えて現れ出てしまうこと」について、「多弁であることで本質から離れてしまうこと」について、「沈黙の中にこそ なにかその人の本当の音があること」についてなどなど、思い切りテーマがシンクロしていて、そのことを「ああ、そうだよね、そういう生き方に変えたからシンクロは当たり前だよね」という気持ちと「うわー!すごすぎる〜!!」という気持ちがない交ぜになって、なんだか感慨深く聞いていた。


ホンマさんの「すべてを言ってしまうのは野暮」という感覚もとてもよくわかるし、その抑えた中にほとばしるエネルギーを感じることが、表現したいものをよりいっそう際立たせるのだろう、ということも感じた。

 

終了後、小木戸さんの本『表現と 息を している』を買った。じっくり読みたい。

CDも。ホンマさんのニュードキュメンタリー映画の冊子も。
浸りたいと思う。そういう時間が私にはとても大切。

 

これから小木戸さんが何を表現していくのか、どのように表現していくのか、見ていきたいとつよく願った。見届けようと思う。

ありがとうございます、公美子さん。素晴らしいかたを紹介してくださって。本当にありがとう。

 

f:id:K-GO-TO:20170923084446j:plain



 

 

躁のかたに役立つ情報!日常生活で気をつけること

えー、病気についてカミングアウトしたところで、以前から通っている鍼灸の先生がおっしゃっていた躁について役に立つ話を書こう。

鍼灸といえば、フィジカルな症状を緩和するのがふつうだと思うが、私の通っている齋藤鍼灸院では、メンタル系の患者さんもたくさんいる様子。
躁状態の患者さんも少なくない。
私がとうとう精神科に再び通い始めたと言うと、先生はこれまでの経験から次のようなことをアドバイスしてくれた。

1日に予定は2つまでにすること
夜は0時までに就寝すること

どういうわけか、なんでも最速でできるような気がしちゃうんだよね。しかも、少し前までは実際できてたし。
もっとも効率的なやり方を瞬時に把握できて、そのとおりにやるだけで簡単にいろいろ完了しちゃって、急に自分の頭が良くなった気がしたもん。

その記憶が鮮烈なものだから、その後、少し脳が疲れてきてだいぶ頭の回転が鈍くなってきているのに、それを忘れてガンガン予定を詰め込むし、なんでも安請け合いしちゃう。
結果、約束を忘れたり、ダブルブッキングしたりして、慌てることになる。

「1日に予定は2つまで」であれば、仕事がある日なら仕事ともう一つだけしか予定が入れられない。それなら、万一 忘れたり、いろいろやらかしちゃったとしても、元々の約束自体を絞っているので、被害を物理的に抑えることができる。

結果、夜もまともな時刻に帰宅でき、就寝できる。
これによって充分な睡眠時間を確保でき、脳を休ませることができる。

躁状態というのは、脳が暴走している状態らしい。これを齋藤先生は原発に例えた。

うまいこと冷却しながら動かせば、効率的にエネルギーを活用できるが、何かのはずみで冷却されないまま動かし続けると、熱を持ち暴走する。原発というのが物騒なら、コンピュータの熱暴走と言えばいいかも。

メルトダウンしないように、うまく冷やして脳を休ませることで、最高のパフォーマンスが出せる。その一番の冷却剤が精神科で処方される薬だとのこと。

すごく よくわかった。納得した。
薬を飲むのも、脳を休ませるためと思えば、嫌ではない。

齋藤先生、素晴らしいです。なかなか予約が取れないのがたまにキズだけど。

f:id:K-GO-TO:20170921181043j:plain

(「冷静と情熱のあいだ」的な)健康と病気のあいだ

健康と病気のあいだ、「健やかである」ことと「病んでいる」ことの境界線はどこにあるのだろう?

 

7月くらいから、いつもよりかなり睡眠時間が短くなっていた。

寝つきが悪いわけではなく、2~3時間眠ると目が覚めてしまうのだ。

そして、もう一度寝ても また1時間くらいで目が覚めてしまう。

そうこうするうちに4時とかになり、あたりはもうすでに明るく白んでいるから「もう起きるか」という気分になり、起きてブログを書いたり、Facebookをチェックしたり。

 

そんな感じで睡眠時間が短いために、昼間、めっちゃ眠くなる。

事務仕事なのでパソコンに向かって作業をするのが割と普通の状態なのだけど、ヤバいので席を立つ。

トイレに行くと座ったままトイレで寝そうになったり。

仕方ないので昼休みの1時間のうち、最初の30分を昼寝に充てて、残りの時間で食事をする、みたいなスケジュールを組んだりした。

 

眠くなくても、なぜか落ち着いて机に向かっていられない。

普段の自分と比べて離席率が異常に高くなっていた。

隣のビルが解体工事をしているのだけど、その振動が気になって気になって集中できない(と思ってた)。

口の中が乾く感じがして、うがいをして口に水を含んでいる時だけ心地よいので、ずっとうがいをしていたくなってしまう。

 

過敏になっていた。

明らかにおかしい。

 

以前の私は集中力が半端なくて、仕事も3時間くらいは平気でぶっ続けでやっていた。

一息入れようと伸びをすると、朝9時に始めた仕事なのに もうあと五分で昼休みなんてことも、ザラだったのに。

 

宮古島に行く前に、職場の上司から言われた。

「最近ぜんぜん仕事が手についてないよね?病院に行ったほうがいいと思う」と。

宮古島で夫からメールを受け取った。

「病院に行ってほしい」と。

(夫からのメールには文字で書かれたこととは別のネガティブエネルギーが載っていたため、私はエネルギーの方に気を取られ、反発し、メールには返信しなかった)

 

長い付き合いの上司と夫からほぼ同時に同じことを言われたことは、結構なショックだった。

「以前」の状態を知っている二人である。そんなに自分は「おかしく」なっているのか。

宮古で、「すべての会話に入ってくる」といわれたこともかなりキツかった。そんな気持ち悪いことをしていたのか…という感じだった。

自分としては必要性はほとんど感じていなかったが、一応 受診しておけば文句ないだろう的な考えもあり、渋々ながら鬱になったときにお世話になった主治医を訪ねた。

 

先生は私の顔を見た瞬間、「Kさんは双極性だったんだねぇ…それが鬱の時にわかっていればなぁ」と言った。そんな瞬間的にわかるほどなのか…。いろいろな意味でこれまた衝撃を受ける。

 

そういえば鬱になる前、ハイテンションだった。今 思えば、あれは躁だったんだ…。

経験のない部署に異動したこと、昇進して部下を指導する立場になったこと、それなのに仕事がたまっていく一方で自分の役に立たなさ加減を情けなく思っていたことなど、仕事上のストレスで鬱になったと思っていたが(もちろんそれらも確かに関係していただろうけれど)、それ以前に躁状態の時期を過ごしていたんだ。。。

 

双極性障害

 

弟がその診断を受けていた。

ずいぶん前のワールドカップの年、弟は自殺未遂をし、まだ存命だった父が気づいて一命をとりとめた。

搬送先の病院で躁鬱だったことが判明した。サラ金への度重なる借金の理由がようやく分かった。

父も双極性かどうかわからないが、明らかに鬱の症状が出ている時期があった。私たちが未成年だったころ、酒を飲んでは「切腹する」と言って、私たち家族をげんなりさせた。

父なりに自分の人生や家族に対する悔恨の気持ちがあって、それをそんな形であらわしていたのかなと思う。そんなに気に病むような暮らしではなかったのに。毎日ご飯も食べられたし、社宅のアパートではあったが文字通り「狭いながらも楽しい我が家」だった。大学進学こそ叶わなかったけれど、就職後、自分で貯めたお金で夜間 大学に通った時期には、給料からわずかな金額を母に渡すだけで、衣食住すべて面倒見てもらっていた(家族のありがたみが身に染みたのは一人暮らしを始めてからだ)。

 

f:id:K-GO-TO:20170920012513j:plain

 

 

閑話休題

 

健康と病気の境目、境界線はどこなのだろうか。

自分の基準では、その症状・状態であることで「自分が辛くないこと」「自分や家族、周囲の人が困っていないこと」をクリアできていれば病気ではないと思っている。

これで判断すると今の私は、まさに健康と病気のあいだギリギリのところだ。

病気だろうか。それとも健康だろうか。

 

自分は辛くないと思っていた。昼間の眠気は夜寝ていないからだと思っていた。でも処方された薬を飲んだらかなりの長さで睡眠時間を確保することができて、昼間眠くなることはほとんどなくなった。楽になった(つまり以前は辛かった)。

夫は私の帰宅時刻を気にしていた。たった一晩の徹夜で躁転(ひどい躁状態になってしまうこと)する場合もあると知って、心配していた。私は束縛されている気がして余計に家に帰りたくなくなり、でもせめて終電には間に合うように努力はしていた。そのあたりに摩擦が生じ、この前はとうとう怒鳴りあいの喧嘩に発展した。喧嘩なんてこの18年間でほぼ皆無だったのに(夫がいつも我慢していたのかもしれない)。

こう考えてみると、たぶん病気なのだろう。職場の上司も含め、周りの人も困っているし。

 

薬は飲みたくなかったが、躁の時期から服薬しておくと鬱期に落ち込む度合いが浅いと聞いた。

薬は感情の揺れ幅を緩やかにするものらしい。

そうならば。

そして今、弟は3年めという長い鬱期の真っ只中で病院にも行っていないのだけれど、私が同じ躁鬱で、薬を飲んだらどれくらいでどうなるか、身をもって実験して、弟に体験談を伝えることができると思った。

どんな結果にになるにせよ、彼の身の振り方の参考になるな、と。

そう思ったら、服薬に前向きな気持ちになれた。

一生薬を飲むことになると言われたことはショックだけれども。

 

健康と病気のあいだ、ギリギリのところでなんとか生きている。

 

f:id:K-GO-TO:20170920012603j:plain

 

 

 

 

 

隠れ家「エイル(Eir)」ができました

 

菊名のごちゃまぜの家(カッコよく言うとScramble House Tokyo)の2階に隠れ家「エイル( Eir )」を調えることができた。

先日、ご家族総出で来てくださった不動産会社のSさんを中心に、鉄砲玉えりか姫・たくちゃん&W一家、チーム ゼロのほっしーさん&徹くんたちが、襲い来る蚊や(蚊対策で窓を閉め切ることによる)暑さを回避しながら、障子と網戸の張り替え、アプローチへのウッドチップの敷き詰め、全体の掃除などなど書ききれないたくさんの作業と、その仕上げに畳のお浄め拭き×3回を、汗だくでしてくれた。

わたしは、と言えば、少し草むしりしようかな…と庭に出たものの、あっという間に数か所蚊に刺され這う這うの体で屋内に逃げ込んで、ギタレレをポロポロやったり、かと思えば、急に近隣駅まで出かけたりで、部屋の掃除にはまったく関与せず…

そうこうするうちに夕方になり、W家のMさんに夕飯づくりをリードしてもらい、えりか姫・ほっしーさんとともにお手伝いをして、ずっと食べたいと思っていた肉じゃが、焼きナス、味噌汁などなど野菜たっぷり、子どもたちがはしゃぎまくって ごちゃまぜ感たっぷりの素晴らしい晩餐になった。

みんな忙しい中そして暑い中、力を貸してくれて本当にありがとう。 

f:id:K-GO-TO:20170915003427j:plain

f:id:K-GO-TO:20170915003256j:plain

f:id:K-GO-TO:20170915003311j:plain

 

陽当たりのいいところがすき。そして風通しのいいところがすき。

窓という窓はできれば常に開けておきたい。

三方に窓のある部屋は望んでもなかなか巡り会えないから、とても嬉しい。

  

以前書いたように、この部屋は主に、ちょっと一人で籠りたい鉄砲玉、癒しが必要な鉄砲玉の隠れ家として機能させたいと考えています。使いたい場合は事前に連絡をお願いします。

鉄砲玉でなくても直接の友人であれば、必要に応じて使っていただこうと思っているので、必要になったかたはご連絡ください。 


隠れ家「エイル」のご利用案内

場所:菊名 Scramble House Tokyoの2階、外階段をあがって右側、最初の扉です。

定員:1名(ただし事情がある場合は応相談)。

 

メインの畳の部屋と、板の間の台所の二部屋です。ガスは使えません。

電気、照明あり。水、トイレあり。シャワーは1階でお願いします。

ソファもベッドも布団もありません(近々、空気で膨らませるソファを導入予定です)。

宿泊希望の方は、当分の間、寝袋持参でお願いします。


 

エイル(Eir)(Wikipediaより抜粋)

古ノルド語で「援助」や「慈悲」という意味のある、北欧神話に登場するアース神族の女神。ワルキューレの一人でもあり、死者を蘇らせる能力と結び付けられている。特に薬草に詳しく、死者を復活させることもでき、肉体的な治療だけではなく、精神、感情、霊的な治療も行っていたとされる。

 

f:id:K-GO-TO:20170915002920j:plain

 アカネさんも別件を済ませて駆けつけてくれたよ〜。