いばやスタイル実践記〜歌とACIMと ときおり数秘

ACIM(奇跡講座・奇跡のコース)学習者による ibaya《いばや》坂爪圭吾さんリスペクトブログ。即興の歌やトリニティ数秘術、クリスタルボウルについても語ります


    場所:菊名 Scramble House Tokyoの2階 (外階段をあがって右側、最初の扉)
    定員:1名(ただし事情がある場合は応相談)
      使いたいかたはKまでご連絡ください
      メインの畳の部屋と、板の間の台所の二部屋です。
      電気、照明あり。水、トイレあり。ガスは当面 使えません。
      シャワーは1階でお願いします。
      ベッドも布団もありません。
      空気で膨らませるソファがありますが、寝るには不適かも。
      (ドライヤーと扇風機を1階から借りてきて設置してください)
      宿泊希望の方は、当分の間、寝袋持参でお願いします。



癒しとはなにか/私たちは本当の意味では死なない、死ねない。これが真実だと心から納得すると世界はheavenになる。

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自然な流れで「ヒーラー」と名乗ろうとする瀬戸際に立っている。
今。

ヒーラーとは何か。
癒す・癒される とはどういうことか。

なんども何度も問いかける。

「癒しは起こるもので、起こすものではない」と聞いたことがある。
それは、確かにそうだと思う。

自分はヒーラー(healer・癒し手)というよりもプレイヤー(prayer・祈り手)だ。

自分が癒しを起こせるわけではない。そんなことは とっくのとうに わかっている。
できることといえば、ただただ祈ることくらいだ。

そして、祈ることで癒しが起こるならば、それは神(天)の御心のまま、ということなのだろう。もしも癒しが起こったのならば、それは自分の祈りが起こしたのではない。
癒しを起こす━━そんなことはできない。それは、自分だけでなく、この世界の誰にも。


どんなに祈ったって、全身全霊を込めて懇願したって、結局すべては神(天)の思うがままなのだ。


どんなに超人的な力を授かっていようとも(そして みんな授かっちゃってるんだな、これ。自覚していないひとが今のところ大多数ってだけで)人間、死ぬときは死ぬ(魂は永遠という話はまた別として)
自分たちはそこからは、どうがんばっても逃れることはできない。そしてそれは、実は超絶 幸せなことなのだ。

 


何を言っているか、わかりますか。
ついて来られてますか。
(あ、でも、もしも今わからなくても、気にしなくていいよ。必要な時にきっと思い出すから。)

 


癒すこと イコール ゆるすこと だと思う。

自分をゆるすこと
相手をゆるすこと

相手だと認識している——(でも本当には相手なんていないので、その相手=自分なのだけど)その相手=自分をゆるすこと


ゆるしは最強。
ゆるしは自分を完全に自由にする。

最強のツール。

この「ゆるし」は、「これまでのゆるし」(=今、世間的に「ゆるし」と思われているもの)とは全く違うものだ。

これまでのゆるしは、いわば「囚われの許し」。
許そうとしていることに囚われている。
許すべきものから心が離れていない。そのエネルギーは重く、ベタつき、周りも自分も闇に縛り付ける。

「寛容で恩情に溢れた自分」が「罪深い罪人」に対し、もったいなくも垂れ賜る「許し」。「罪びとたちはそれを涙を流しながら ひれ伏し謹んで受け取るべきであり、そのような恩情を惜しげなく与える自分を崇め奉るべし」という有無を言わせぬ鎖で締め付ける。

誰を?自分を。

そこでは罪びとは永遠に罪びとであり、許しを与える自分とは永遠に別の存在で、決して交わることはない。
その意味で、罪や過ちは取り返しのつかないものとして、永遠にそのままに保たれる。

これが「ゆるし」だろうか。否。鋭い棘を隠し持った醜く重い鎖でしかない。

 


本当の「ゆるし」は自分を自由にする。そこには何の執着もこだわりもない。


「まあ、何てひどい夢。でも夢だった。ああ、夢でよかった。」そう呟いて、ふっと笑みを漏らしながら、陽の光に目を細める。

夢に見た、ひどすぎること。もしもそれが本当に起こったことだとしたら、決して許せないような。

目覚めた直後には「本当にそんなことが、あったのかな。いや、でも、なかったかも」と記憶の断片が漂うかもしれない。

それらは、はかなく消えゆく夢。ただの勘違い。単なる間違い。
すっと、軽やかに方向転換すればいいだけの。
いずれそれらは記憶から跡形もなく消え去り、そんなことがあったのかどうかを考えたことさえ夢幻のようで、つかめなくなる。
だって、本当にそんなものだから。


いろいろな苛立ちや怒りのもとをじっくり眺めてみると。
「この有限で唯一無二の‘体’が、大事な私の’体’が脅かされてしまう!」という恐怖に基づくものが大半だとわかる。


体を「簡単に取り換えのできるマテリアル」であると考えてみてほしい。この人生をドライブするのに便利な車みたいなものだ、と。


どうだろう?
そう考えたとき、同じ怒りが同じテンションで起こってくるだろうか?

車のように、手入れを怠らず、丁寧に慈しんで扱うことで、快適な旅を味わうことができる。

壊れてしまったら修理すればいい。修理ができないくらいになってしまったら新車に乗り換えればいい。


私たちは本当の意味では、死なない。死ねない。
これが真実だとわかると世界がheavenになる。

 

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